(誤解と偏見に基づいた、少し長い文章です。めんどくさい方は読まないで下さい。)
日本自立生活センター 所長 矢吹文敏
今、障害者運動に関わってきた人達は、大きな挫折感や自虐的な気分に覆われている。言うまでも無く『総合福祉法骨格提言に対する厚労省の姿勢』について、言葉を失った。
全く見事なエリート意識をむき出しにした姿勢と言わざるを得ない。
しかも、このことで我々が民主党・国民新党の与党に対する批判を集中し、政権交代が失敗だった事を際立たせるための一種の世論コントロールをすることも計算済みのものとも言わざるを得ない。つまり、現官僚たちは揃って民主党つぶしを図っていると断言するしかないのである。
さらに言えば、障害者たちが『権利だの尊厳だの、主体性だの社会参加だ』などと口にすること自体を100%否定したものと受け止めるしかない。障害者は『社会福祉という狭い枠の中で面倒を見てもらうことで大いに満足し我慢していなさい。あなた方が、私らのようなエリート社会に参加することなど500年早い』という事を明確に示したのである。
関西のある市の首長が独裁者だと評する人たちも多いが、自立支援法による応益負担を違憲とした訴訟も、その後の和解も、官僚は全て反故にするだけの権限を持った、もはやわが国は言うまでも無く、官僚に牛耳られた恐ろしい国になっているのである。
それは、ヤンバダムの復活も原発の再稼動も第2名神高速の工事再会も、高速道路の有料化復活も、野党経験しかない民主党のお坊ちゃん集団をリモートコントロールし、あたかも自分たちは行政マンとして法律を守るのが仕事などと言いながら、実は、自分たちの国づくりをしているとしか思えない。
なんとか維新の会などという人たちも、彼らにとっては格好の材料であり、お互いにタッグを組めば、気に入らない人は全て追い出した政治を自由に出来るのだ。
障害者自身も、公共交通機関の無料や半額制度などの恩恵主義・救貧制度などの既得権を温存しておいて『権利性』を主張することはもはや許されない時代に入ってきた。所得制度の確立を抜きにして、やってあげてる、やってもらっている関係をそのままにして、対等な社会参加など望むべく無い事を自覚していかなければならない時代に入ってきた。
バリアフリーで『トイレを使える』と喜んでいたら、いつの間にか『ユニバーサルデザイン』で、そのトイレを一般の人たちが占領し、車いすの人が全く使えなくなってしまった、というような、笑えない事態がいたるところで発生している。
『対等平等に生きる』と言う事がどういうものかなどの検証もなしに、言葉で踊らされ、あたかも障害者が社会の中で大切されていると言う錯覚の中で、肝心な社会参加は、極めて一部の障害者だけが『優越感を持って』存在しているに過ぎない。
私たちは、政権交代に幻想を持った。しかし、後戻りをすることはさらに危険である。
「障害者生活総合支援法(仮称)」などと言う、親父ギャグでも使えそうも無い言葉をつないでオチャラケている厚労省・財務省の幹部が、お嬢様の小宮山厚労相を手玉に取っている姿が、目の前のパソコン画面に出てくるようである。
とても場違いに書いてしまったかもしれない。日本自立生活センタースタッフ全員の意思が入った文章でもない。とにかくも、私個人のぶつける相手もいない、今流行のツイッターの延長線でしかないことをお断りしておく。