京都から宮古へ④

 4月2日、昨日、三陸鉄道田野畑駅での復興一部開通を祝う式典に参加した京都メンバーだが、今日は、それぞれが別途に行動。
 現地スタッフの方と一緒に、土曜日に印刷所から届いた「4月14日、交流イベント、お花見のお知らせ」に関するチラシを、地図上の場所をいくつかに分割したブロックごとに、ポスティングするという。
 その中には、点在している仮設住宅も予定されており、京都から到着した次の日にも行った活動の一環だ。訪ねていく家の中には、新聞や郵便物が溜まったままの家もあり、いくら声をかけてもお返事のない家も何軒かあるという。
 中には、郵便受けに以前に入れておいたチラシがそのままになっていたともいう。雇用促進住宅の棟全体がすでにだれも住んでいないと言う所もあるというのだ。
 
 地震の被害が甚大であることは今さら言うまでもない。津波の被害も私たちの想像をはるかに超えている。
 しかし、今まで住んでいたアパート全体の住人が忽然と消えてしまうという、まるでホラー映画のような状態が、目の前にあるのだ。
 ここに住んでいた人たちは、一体どこに行ってしまったのだろうか。
 
 午前中に、定期に受けている点滴を受けに通院した宮古駅に近い医院で伺った話によれば、その津波は、医院の前に流れている川の所で流れが止まり、医院の建物は無事だったという。
 看護婦さんによれば、釜石や大槌町、山田町などの医療機関津波でやられ、血液検査などの機器が使えなくなり、幸いにも被害のなかった底の医院を訪れる患者さんが急に多くなったのだという。中には1時間以上もかけて通院してくる方もいて、病気を治すための通院が、逆に大変な負担になっている方がいるという。
 
 宮古で出会う方々も、釜石や田野畑で会う人たちの表情は明るい。会話も普通に行われている。しかし、何分か話していると必ず、津波の被害の話になってきて、今後の生活が不安であることを呟いてくる。皆、相手の立場に立ちながら、お互いに遠慮しながら被災状況を語っている。
 限りなく人は優しい。 限りなく人は寂しい。 限りなく人は災害や事故を恨む。 時として人のことを考える余裕もなく、我が身を守ることを最優先する。 いずれも、誰もに起きる普通のことだ。
 中には、生きている自分に罪悪感を覚えてしまう人もいる。「あの大事な人が亡くなって、どうして自分は生きているのだろう・・・」・・と、考える人も少なくない。
 
 災害は、すべての人を巻き込んで、悲しみを広げる。
 毎日を支援活動に使っている支援者たちが、今、疲れている。こんな時だからこそ、車いすの上からギャグを飛ばす。強いところも弱いところも、そのまんまの自分を映し出す。
 何もできない人間が、何かを残すために、今日も何とか動いている。
 
(続く)