【感想編】 相模原殺傷事件から1年 事件をうんだ「障害者はいらない」という考え方(優生思想)」について考える (居場所づくり勉強会 第47弾)のご報告

前回の投稿に引き続き、
「相模原殺傷事件から1年
事件をうんだ「障害者はいらない」という考え方(優生思想)」について考える」
について、今回の投稿は 【感想編】 です。



前投稿で書いたように、「安楽死」と一言でいっても、いくつかの方法があり、認められる方法や条件も国・州によってそれぞれで、時代によっても、影響し合ったりしつつ移り変わりがあり、複雑な様相を呈していることを学びました。

しかし、姿かたちを変えてただ歴史が繰り返されているようにも見えます。
それは、いつも根本的には命の選別の是非論争だからなのではと思います。
つまり、安楽死を肯定する言説の根底には、「生きるに値しない命がある」という価値観が横たわっていて、
そのような命の選別を容認するのか、反対するのかというせめぎ合いを、ずっと私たちは繰り返しているのではないでしょうか。

優生思想については、社会の優生思想的感覚、それと地続きの若者の生きづらさ、大谷さん自身の当事者性というふうに、多角的な視点でお話しいただきました。

みなさんの中には、
「障害当事者は自身のことを、優生思想の被害者側としか思っていない」
というイメージをお持ちの方もおられるかもしれませんが、そんなことはありません。
障害者も健常者もほとんどの人は、大小の違いはあれども優生思想の片りんを持っています。
ただ、障害当事者は、そのことにストイックであればあるほど、より多く傷つくことになるのかもしれません。
自分が優生思想によって社会から否定される存在だという自覚で一度。
自分の中にもその優生思想があるという目を背けたくなる事実を自覚して一度。
その内なる優生思想は、他者の存在と自分自身の存在の両方を否定することになるのだという自覚で一度。。。
その苦しみを抱えながらも優生思想に反対してきたのが、
1970年代「母よ!殺すな」以降の障害者運動ではないでしょうか。

障害者運動では優生思想に反対する中で、
どんな状態であってもよりよく「生きたい」
ということを訴え続けてきたわけですが、
生命倫理学では、どんな状態であってもよりよく「生きたい」という方向よりも、尊厳を持って自分らしく「死にたい」方向の研究の方が大半だというお話しも大谷さんはされていました。

それはやはり、社会全体の関心をそのまま写し取ってるのでしょうか?
相模原殺傷事件の加害者の関心も、より良い生を求めるのではなく、死なせる方向でした。
死生学よりも生存学の語りを増やしていけば、それは反転するのでしょうか?
障害者運動が訴え続けてきた、どんな状態であってもよりよく「生きたい」という語りや実践も、
まだまだ足りていないのかもしれません。
長く真摯にそのことと向き合ってきた人ほど、積み上げて来たものが崩されるような感覚があっただろうと思います。
それでもまた、積み続けていかなければならないと思います。
みなさんも、何か大変な状況になったときに、どうしたらよりよく生きていけるかな?ということをぜひ考えてみてください。そして、現に今、生を否定されがちな人に思いを馳せ、共に考えてほしいです。



こちらの報告もご覧ください。(2ページ目)

http://www.jcil.jp/zigyosho/sukima/77/77.pdf



以上、

居場所づくり勉強会 第47弾
相模原殺傷事件から1年
事件をうんだ「障害者はいらない」という考え方(優生思想)」について考える
講師:大谷いづみ(立命館大学教授)
日時:8月1日(火)13:30~16:00
場所:日本自立生活センター事務所(油小路)

のご報告・感想でした。



8月は、このような命の尊厳に関する勉強会をあと1回開きました。
それはまた後日ご報告する予定です。
(オカヤマ)